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飛龍山 秋、一夜にして雪山 11月18日

2010年11月18日 2日目
三条の湯 ~ 北天ノタル ~ 飛龍権限 ~ 前飛竜 ~ 熊倉山(火打岩) ~ 丹波天平 ~ 丹波小学校

目覚めたのは6時過ぎ。薄暗い。快晴とは行かないが、悪い天気では無さそうだ。

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ユルユルと寝袋を脱いで湯沸かしから始める。その間に散らかした道具たちの片付け。しかし燃料の残量が怪しい。
朝の定番、アルファ化米のしそわかめごはんとみそ汁。コーヒーとポットの分の湯を沸かす。アルコールを使い切ってしまった。予備の固形燃料で補う。この辺りはもっとシビアに計算して計画を練るべきなのだろう。いや、行き当たりばったりな男につき。

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出発の準備が出来たのはもう8時。遅い出発だ。もう小屋には誰ひとり居ない。
重たいザックを背負う。それも喜びの内だ。

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飛龍山を目指し一歩を踏み出す。まずは北天ノタル。そこまで2時間以上を歩く。

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アンドリューはどうしたかな 事件、事故は御免だ。無事であることを願う。

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上り始めて小屋を振り返ると紅葉の下、とても絵になる光景だ。何度も振り返り、名残惜しむ。

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立ち止まれば寒いが、最初から急勾配で歩き出したとたんに汗が流れ出した。何度も脚を止め、汗を拭い、呼吸を整える。タバコを止めたのだ。以前よりは楽に行けるはず。

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冷たい風が雲を連れて吹き上がって来た。山をこの体をかすめていく。鼻水が止まらない。
上の方は寒そうだ。雪を冠っている。昨日の雲取山と同じだ。

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ダーン!
爆音が轟いた。北天ノタルへの中間地点。山々にこだました。思わず足が固まる。
銃声だ。「鹿猟が解禁になった」夕べの風呂での会話を思い出した。三条の湯の親方が放ったのだろう。それにしても凄まじい音だ。まさかこんな近くで始まるとは。仕留めたのだろうか。何処から何処を狙ったのか。その後は静寂となり様子が分からない。見回しても何の動きも見えない。人間も鹿も気配を殺しているのだ。気付かれないまま両者の間に入ってしまっているのかも知れない。足を止めて様子を窺う。流れ弾に当たったりしないだろうか。このオリーブグリーンのフリースは風景に溶け込み過ぎてはいないか。昨日の丹波天平での嫌な冷たい空気が甦った。これから起きる事件、事故への警告、虫の知らせではなかったのか。これ以上入るな、帰れと言われているようだった。先へ進むのは止めるべきなのか。もうここまで来ているのだ。進もうが戻ろうが当たる時は当たるのだ。
銃声。思い出す。いつの日だったか。勤務先事務所のすぐ横の小さな路地で男が撃たれ女が泣きわめいた。
拳銃で三発、射殺されたのは暴力団組長ということだった。あの凄まじい破壊音が銃声とは思えなかった。映画やテレビのドラマとはまったく違う音だった。そして無闇に発射しない。
「薬莢は見つかりません。回転式と思われます!」「まだあそこにそこにもっとよく視ろ!」「はい!」

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テレビ局の報道取材インタビューを受けたこと。「ニュース見たよ」と懐かしい声を聞いたこと。当時の色々な顔と時間が思い出され、想いも甦った。あれから何年が経ったのだろうか。これまでどういう時間を過ごして来たのだ?いったい何をしていたのダーン!
再び爆音が轟いた。射抜かれた?風穴が空いたような。もしかしてその銃声の主はアンドリュー?ここを狙っているのかい?平気さ、すでに穴だらけさ。

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雪が目に付きだした。昨日の雪が凍っていた。雲取山同様、雪を冠ったようだ。

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ザクザクと砕く音は心地良かった。歩みを実感出来た。枝も凍りついている。笹の上の雪は昨日のものでは無い。

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雲取山からの雪で白くなった道と合流、北天ノタルに到着した。10時30分、2時間半。見込みを20分程オーバーしている。これまでとは違う空気。汗も鼻水も止まっていた。

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風が吹き始め、雪が混じり出した。手袋を取り出す。トレイル上には白く積もり、進んで行く道を浮き立たせた。
雪はすぐにあられとなった、ザックに音を立て、地面でも跳ね転がっている。痛いっ。唯一露出している顔に当る。

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あられも一時でまたすぐに雪へと変わった。ジャケットを出そうか。寒くはないし足を止めたくない。ザックを下ろす気になれない。飛龍権現までもうすぐ。そこまではこのまま行ってしまおう。

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凍結は無いものの、昨日の残雪に今日の新雪が被さっている。滑らないだろうか、緊張が途切れない道のり。

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木の枝も凍り付く。

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飛龍権現に到着。11時20分。山頂への登り口を見落とした。足元に気を取られ過ぎたか。50分掛かってしまった。

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雪に埋もれそうな小さい祠に気付くには時間が掛かった。ここから山頂へピストンしようか。しかし時間にも雪にも不安がある。少しだけ試しに上ってみる。この辺りの足場は心配ないがこの先も同じと思ってはいけない。体力も温存しないと。山頂は景色が無いとあった。ましてやそんな天候ではない。

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ザックの上には雪が凍りついていた。バラバラと落とし、ポットとカップを出す。脚を止めていると流石に寒い。

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甘いカフェオレを湯に溶かす。湯を作っておいて良かった。熱さに注意しながら啜る。寒く白い雪。その中での熱く甘いコーヒー。視覚、嗅覚、触覚。いくつかの記憶が甦った。しかしセンチメンタルに浸っている余裕は無い。そしてそんな想いはどこか遠くへ連れて行かれてしまいそうだ。
昨日から潰され続けたレーズンロールと黒糖ロールの昼食を摂る。熱いカフェオレもあっという間に熱を奪われていく。その間にも雪は量を増して行く。急がねば。

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11時50分。出発。この状況もこの山頂付近2,000mのこの辺りだけで少し下ればすぐに雪は無くなり、昨日の秋の景色になるのだろう。そう思って疑わなかった。この瞬間はこの状況を楽しんでいた。冒険には想定外、素敵な事件が必要なのだ。

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しかし雪は時間に連れ大粒になって量を増し、樹々や道は見る見るうちに白に埋められていく。こんな景色になるとは。何て静かなんだ。足音さえも雪に吸い込まれる。寒い。足を止めてネックウォーマーを出し、耳を覆った。歩けばすぐ温まるはずだった。しかし足場も怪しくなり、思う様に足が運べない。スピードを上げられない。
手がかじかむ。手袋も就寝用に持って来た物。紅葉を愛でる秋の装備だ。この冷たさには足りな過ぎる。まるで冷水に浸けているかの如く。ダブルストックだしポケットに入れては歩きを進められない。
体が震える。温めようと全身を大袈裟に動かして歩いてみる。妙な動きはかえって邪魔をし無駄に体力を消耗する様に思えた。足場だって怪しい。自然の身震いに任せよう。
カラビナに吊り下げてさっきまで汗を拭っていたタオルは、気付けばカチカチに凍りついている。
凍傷、低体温症が頭を過ぎる。嬉しい事件は不安へと一変した。
倒木が道を塞いでいた。道を見誤ったか、いやピンクのテープが巻かれていた。潜るには低く、跨ぐには大き過ぎた。回り込む。雪が道を埋めて行く。踏み跡は無い。テープが頼りだ。道を外さないように細心の注意をするのだ。大部分が細い尾根道、一番高い位置を維持して歩けば良いはずだ。ここが前飛龍だろうか、岩を上っていた。この雪にこの岩。上ったはいいが何処へ下りれば良いのだ。すると向こうにオジサンの姿が。その表情には不安と笑みが入り交じっていた。「こんにちは。参りましたね。気をつけて。」気持ちだけのハイタッチを交わした。オジサンが現れた方向へ、その足跡を辿る。ありがたい。

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前飛龍の標識。12時45分。30分程度の道のりを倍近く掛かっている。急がなければ。しかし、これを下りろと言うのか。ほぼ絶壁。恐ろしい。切り立った尾根。これは雪がなくても恐ろしい。それをこの雪。そしてどこへ向かって下りれば良いのだ。先人の足跡もすぐ雪に埋もれていた。体の向きを変え、埋もれた足場を探る。冷たい雪に手を突っ込み手掛かりを探る。それはもう冷たいを通り越して痛い。そして感触も麻痺してそれが岩なのか雪なのかさえ判断出来なくなって来た。ちょっとでも滑ろうものならば、また踏み外すことがあればそれは奈落の底へ。慎重を極めた。ああ、もう生きた心地がしない… 何度も声にならない悲鳴をあげた。
急激な落差が続く。正しいルートなのか。下りて行くことができるのか。それでもルートを確保出来ているのは、幸いにも切り立った細い尾根道だから。もちろんそれは帰ることが出来たらの話しであって、滑落して帰らなければ、不幸にして切り立った細い尾根道と言うことになる。

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おっと。ささやかな下り道で足を滑らせ転倒。身体にダメージは?大丈夫。痛みは無い。起き上がり、雪を払い、歩き出す。5歩と進まずまた転倒。やれやれ。歩幅を狭める。ハの字にしてみる。横向きに歩く。色々試し探る。それでも転ぶ。そんなことの繰り返し。まったく進みやしない。ダメージは転ぶことよりも20キロ近いザックを背負って何度も起き上がらなくてはならないこと。平地や上りでは転ばないで済む、ではと後ろ向きに歩いて見る。そんなことを繰り返しぜんぜん進まない。
雪は無くならないどころか勢いを増す。目の前はただ真っ白な世界。耳を澄ましても聞こえるのは自分の震えた息遣いだけ。世界と遮られ、切り離され、閉じ込められる。死の世界へと誘う妖精が舞い降りる。とうとう自分の身にもそんな時が訪れてしまったのだろうか。体力も気力も薄れて行く。運命は死神の手のひらの上。自分自身を制御出来ていない。押されたり、引かれたり、弾かれたり。もてあそばれているようだ。無力だ。絶望感が顔を出した。
されるがまま、なるようになれ… さあ、早くとどめを刺せ…

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足を滑らせ落ちる。岩に打ちつけ骨が砕ける。あるいは枯れ木に肉を引き裂かれる。純白の雪を濁った赤黒い血が滲み融かす。痛みと寒さ、そして孤独、絶望、恐怖に震えながら死がやって来るを待つ。いや、その辛さに耐えられず自ら命を絶つかもしれない。そんな姿が容易に想像出来た。
そして良く晴れた日曜日、色鮮やかに着飾った若い山ガールたちの悲鳴がこだまするー

それは可哀想だ、気の毒だ。その後処理をする人達もいる。迷惑だ。家族や仲間たちも避難を受けるだろう。それはあってはならない。
このまま消えてしまって良いのか?役割を果たしたのか?何か残せたのか? 何も出来てやいない。その価値も資格もないということだ。冒険者を気取ったただの逃亡者。まだ死ぬことは許されない。帰るんだ。帰って仕事をするのだ。タフが自慢だろ?動けなくなった訳ではないのだ。歩いているのだ。やることはただひとつ、足を前に繰り返し出し続けるだけのことだ。どれだけの時間が掛かろうとも…

しかし壁だよ… 壁のような上り。下りなくてはならないんだ。なのにまだ上るのか…いい加減にしてくれ…

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見上げるとそこには光があった。太陽だ。導きの光り。気付けば雪は止んでいた。太陽を掴みに行く様に這い上った。

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太陽の光りが注がれ、雪道に反射して拡散した。救われたのだ。

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しかしまだ終わりにはほど遠い。行こう。途中、木に吊るされた札を見つけ、付いた雪を払い落とす。

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熊倉山。6月に向こうからここまでは歩いた。この先は知った道のり。14時15分。やはり倍の時間が掛かっている。日没に間に合うか。見込みではあと2時間半。ぎりぎりだ。もうこの先はほぼ平坦な道が続いたはずだ。
まずはこの急な下り坂。とても歩いて行けるとは思えない。滑り転げ落ちるのが目に見える。
真っ直ぐブレずに下りるには… ストックを最短にしてしっかり握りしめ、尻を着いて滑り下りた。尻セード!

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穏やかな道になり、気持ちも穏やかさを取り戻しつつあった。

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それでも歩幅は小さくゆっくり慎重に。

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空が晴れれば心も晴れる。雪景色を楽しむ余裕が出て来た。雪を冠ったブナの森

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樹々に被った氷が輝き、真っ白な雪の上に真っ赤なもみじを散らせた。

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特別な光景。目紛しく変化する風景と感情。特別な場所と特別な時間。

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サヲウラ峠までやって来た。陽は随分傾いた。ここまで変わらずの雪道だった。

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昨日と同じ場所 昨日は秋で今日は冬 道標も夕陽に輝く

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さて、ここを下りるかそれとも。この雪の中、未知の急坂を下りるより、暗くなったとしても知った丹波天平を下りる方が良いだろう。それに雪の丹波天平を見てみたい。決めたら急ごう。

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しかし焦りは拭えない。この陽もすぐに落ちてしまう。

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太陽はもう横にあって、立ち並ぶ樹々が光と影のストライプ模様を作り出した。

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冬毛の鹿二頭が道に立ち止まった。こちらに気付く。互いに身構える。一声鳴いてすぐに山の奥へと走り去った。

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青空が広がり、雪を冠った樹々、そこに浮かんだ月までもが光に輝いている。

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何事も無く、またこんな景色が見れて良かった。

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丹波天平への選択は良かった。昨日とはまったく違う場所のように斜陽を受けて輝いていた。

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丹波天平を抜け下り口まで来る。長く伸びた自分の影が雪に映し出された。太陽は山の向こう側へと隠れようとしている。ヘッドランプを取り出して装着した。

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素敵な景色に別れを告げて下り始める。

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正面には夕陽で更に燃える紅葉があった。次第に雪は消えて、雨に濡れた落ち葉となった。しかしそれがまたよく滑った。雪と同じように、何の防御もする間もなくひっくり返った。植林された杉林もあり、あっという間に闇に包まれた。ヘッドランプをオンにする。それはやはり心地良いものではない。早く抜けたいと小走りになる。そして滑って転ぶを繰り返した。

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犬の遠吠え、車のタイヤの摩擦音、生活の音。街灯も目に入った。そして小学校の門が見えた。
終わった。
錆び付いて硬くなったロックを外して門を押し開けた。と同時に音が大きく鳴り響いた。門を開けた事の非常ベルか。小学校への不法侵入、熊侵入の非常ベル。はっとして身構えた。いや、音楽だ。「遠き山に日は落ちて」
時計を見る。17時丁度。びっくりしたよ。感傷的で臆病になっているのだ。深く息をつき背筋を伸ばした。
駐車場へ暗い道を歩きだす。さあ終わった。なのにどうした、なんだこの不快感は。達成感?そんなものは無い。ギリギリだったのだ。ただもがきながら逃げて来ただけだ。そして随分怯えて震えた。生きて帰るための五感を澄ますために感情は殺したのだ。それにしても何だ、この拭えないものは。もういい。終わりだ。帰るのだ。さあ甦れ!

そうだ、アンドリュー、君は無事かい…


三条の湯 7:55
北天ノタル  10:30
飛龍権限 11:20〜11:50
前飛竜(1,954.0m)12:45
熊倉山(火打岩)(1,624.0m)14:15
サヲウラ峠  15:10
丹波天平 15:50〜16:00
丹波小学校  17:00
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2010年11月17日 1日目
丹波小学校 ~ 丹波天平 ~ サヲウラ峠 ~ 三条の湯 ~ 水無尾根 ~ 三条の湯

親川から入り紅葉した丹波天平を歩き三条の湯を目指す。テントを張って紅葉の色と沢の音の中で時間を過ごす。
翌日は北天ノタルから飛龍山に上り、ミサカ尾根を下ってサヲウラ峠から丹波へ下りる。
夜は満天の星空を拝む事が出来たら素敵だ。

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車を発車させたのは0時30分。相変わらず荷造りに迷い時間を要した。鳩ノ巣辺りで3時になろうとしていた。慣れた鳩ノ巣駐車場で車を停める。とても眠い。夜が開けてから丹波へ移動しよう。6時にアラームをセット。瞬時にその時となった。二度寝したい欲求を殺し身体を起こす。寝ぼけを振り払うようにワインディングロードを走る。7時、丹波に入る。通りに設置された気温表示は2℃。寒いはずだ。時間の経過とともにすぐ上がるだろう。丹波の駐車場に置かせてもらう。
準備に掛かろう。行動着は冬用アンダーとフリースのプルオーバー。上半身は出来ている。サポートタイツはここで着用。機能しないと意味が無いと緩いよりキツい、を選んだがキツさがより増している。いけないな…。パンツは夏用だが縦横にストレッチが効くコイツはお気に入り。それに歩き出せばとたんに暑くなる。充分だ。
バス停に向かう。奥多摩行き、8時10分。これが始発であり、次は13時台だ。以降15時台、18時台、で終わり。平日ダイヤだが週末も同じようなものだ。極端に少ない。
バスの時間にはまだ1時間もある。もちろん承知の上だがこの1時間をどうしたものか。もったいない。その分遠くへ歩ける。すぐにでも始めたくてウズウズしているのだ。待っていられない。親川行きはやめよう。親川から始めなくてもここから上れるのだ。行ってしまえ。それに途中のあの荒廃した集落を歩くのは気分を落ち込ませる。あの野犬とも遭いたくない。
三条の湯テント泊はやめて雲取山へ足を延ばし避難小屋泊としよう。そして山頂で星空を楽しむ。その方が空が格段に広い。それに辺りではテレビで取り上げられた雲取山を話題にしていた。行って来たぜ。と言ってやろう。それがいい。そうすれば狼平から三ツ山も歩くことが出来る。そう思うと妙に盛り上がった。決めた。プランBだ。
丹波小学校を入りその裏門を隔てて山道となる。「熊出没注意!必ずロックを!」の注意書き。気が引き締まる。門を静かに開け静かに閉めた。すぐに森となる。熊鈴の消音磁石を外す。さあ、始まりだ。杉が植林されたつづら折りの風景の無い道を、汗を拭いながら1時間半ほど上った。

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丹波天平へ出た。ザックを下し一息入れる。以前ならここで間違いなくタバコだ。しかしこの夏に止めたのだ。感心するほど潔く。
しかし何だこの死んだような景色は。様相が一変する。薄暗くて寒い。冷たい霧雨。ここまでの汗が一気に身体を冷やす。何てことだ。青空と紅葉を期待してやって来た。なのに何だこの景色は。すっかり葉は落ち、その落ち葉にも色付いた気配は無い。空も葉もすべて褪せてセピア色。時期を外したか。鳥の声も無く、生の気配がまったく無い。そして、とても嫌な空気だ。急激に気分が落ち込んだ。不吉な予感?じっとしていると冷たい空気に身体がどんどん冷えて行く。鳥肌が立ち、震えている。熱い飲み物が欲しい。かといって腰を下ろして湯を沸かす気にもなれない。じっとしていられない。気持ちのいい場所のはずだったのに。何だか拒絶されているかのように。帰りたい、今日はもうやめて帰ろうか。そんな気分だ。しかしこのまま下りるのはあんまりだ。ここまで来たのだ。とりあえずサオウラ峠まで歩いてみよう。約30分、それまでに何か変わるかもしれない。何も変わらなければサオウラ峠を下りればいい。今ひとつ気が乗らないままユルユルと歩き出した。

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落ち葉が音を立てる。色づいた葉も見えてきた。歩くことで身体も温まって来た。不快は少しだけ和らいだ。
存在しているのは落ち葉を踏み砕く音だけ。それを楽しんだ。すると、ずっと静寂だった背後で突然落ち葉がざわつき、音が駆け寄る。熊か!ストックを握る手に力を込めた。このストックで戦えるのか。先端のゴムを外せ!それとも急死のフリをして倒れるか。馬鹿げている。振り返った。髪の長い外国人の若い男が迫って来た。かすめるように、そして覗き込むように「こんにちは。」無表情で抜き去って行った。それは華麗な日本語だった。
何もこのだだっ広いところをここまで接近して来なくてもいいじゃないか。一緒に歩きましょう。と言うのなら別だが。
さっと追い抜き、見る見る遠ざかっていく。歩きが速い。何より一歩が大きいのだ。羨ましい…
黒のシャツに黒のザック。ザックの雨蓋に挟まれたジャケットのオレンジが鮮烈だ。手にしてるのはアイスピッケルだった。アイスピッケル? やがて霧の向こうに消えた。
あの日本語、そしてこのマイナールートを歩く。旅行者では無いな。細身で長身、あの長髪はイギリス人と見る。リバプール生まれの名はアンドリュー・アレキサンダー、27歳。どうだ。そうだな、留学生か失業した英語講師か。いや、あのシャンパングラスを合わせに来たような接近のしかたは外交官かも知れないな。さてはあの鋭い眼差し。大英帝国情報部諜報員 MI6…

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風が強まり、霧雨が纏わりつく。今のうちに雨支度をするべきか。
サヲウラ峠手前で人影が。アンドリューがオレンジのジャケットをザックから取り出し、袖を通していた。
寒いよね。しかしこちらに気付くと慌てる様子でザックを背負い三条、雲取山方面へ向かった。歩きは速い。すぐに姿を消した。

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何処へ行こうとしているのだ。同じ雲取山だろうか。真っ直ぐ飛龍山へ、ならまだしも三条、雲取山へ向かうということはやはり何処かで夜を明かすつもりなのだろう。あのザックにテントや寝袋は無さそうだ。山小屋かもしれない。
しかしあのアイスピッケルは?出番はあるのか?ストック代わり?いや、ボンドピッケル、ボンドザックにはどんな仕掛けが隠されていることか…

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このまま避難小屋を共有することになるのだろうか。そして明日はまた一定の距離を保って飛竜山を共にし、2年後にはふたりでパタゴニアを歩いているかも知れない。面白くなって来た。今日のところは後ろから見守るぜ。

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大きな倒木が道を塞いでいた。これは排除しないのか。腹這いになって乗り越える。着地面には足を滑らせた跡があった。注意したつもりだが、同じように足を滑らせ手をついた。

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足下の落ち葉に注意が行く。色めいて来た。赤い葉、黄色、白色、まだ緑の葉、鮮やかに色模様が変化を繰り返した。なかなかの見応えだ。落ち葉の絨毯というやつだ。悪くない。いやいや、すごく良いじゃないか。歩くほどにその色合いが刻々と変化する。見事に色彩が展開して行く。そう、この色を求めて来たのだ。

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人影が。やあ、アンドリュー。また脚を止めているのか。歩きは速いがすぐに脚を止め休む。長距離タイプではないな。それともこちらとの距離を保っているのか?一緒に歩くかい?さあどうする?先に行くかい?そわそわし始めた。仕方ない、時間稼ぎに脚を止めカメラを取り出して被写体を探した。
こちらに気付くとそわそわし始め、物色していたザックをまとめ、重たそうに腰を上げ面倒臭そうにザック背負い歩き出した。特に撮る対象物も無い。仕舞って後を追った。

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歩くごとに樹に残っている葉にも色づきが見られた。もう随分と歩いた。雨の気配もなくなり、じきに晴れそうだ。どこか落ち着けるところがあれば昼メシにしたい。
水の音が聞こえた。

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権現谷だろうか、沢の音は良い。大好きだ。いい場所じゃないか。ここら辺りで大休止を、と上流を見るとアンドリューの姿が。またか、また君か。大きく平らな岩に陣取りザックの中の物を広げていた。ランチか。少年のような笑顔を見せた。やむを得ない。君に譲ろう。今度ばかりは先に行くぜ。

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すこし歩くとまた沢が現れた。

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カンバ谷か そしてこれまであまり見ることが出来なかった紅葉した渓谷だった。美しい。そう、この秋の色、情景に浸るために歩いて来たのだ。ここでランチとしよう。残念だったなアンドリュー、ここは貰った。
12時20分、ザックを下ろす。身体が宙に浮いた。

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湯を沸かして粉末の甘いカフェオレを溶かし、押し込んで潰れてしまったレーズンロールと黒糖ロールを交互に頬張る。
ここでキャンプが出来たら素敵だろうな。沢の音が心地良い。三条の湯のテント場はどんなだろうか。やはり三条でキャンプしたい。そんな迷いも。アンドリューとの避難小屋生活を想像してみる。ヘッドライトの灯りの中、食料を分かち合い人生観を肴にバーボンを舐める。そして遠い日の約束を交わす… まあ日本語が通ればの話しだが。
おっと30分が経とうとしていた。出発しよう。アンドリューはまだ来ないのか。これまでのように前を歩いておくれよ。先を歩いてくれないと落ち着かないんだ。なんて思っていると期待に応えて姿を見せた。通り過ぎるまで片付けていた荷物を散らかして時間を稼いだ。声を掛けようかと思ったが日本語で良いのか。かと言って"ヘロー"何て言おうものなら英語が返ってくるだろうか。それは困る。あちらの出方を見てからと身構えていたが、今度は遠くを見つめたまま通り過ぎて行ってしまった。まあ良い。そしてアンドリューが沢を渡ったところでザックを背負った。歩き出したその時、アンドリューは足を止め、紅いもみじをもて遊んだり写真を撮ったりし始めた。こちらも足を止めてアンドリューの動きを待った。彼は彼でまたアイツか、まったく憂とうしいヤツだ。などと思っているに違いない。
少しの時間を置いて動き出したアンドリューを追う様に歩き出した。相変わらず歩きは速い。すぐに消えた。
この辺りから沢が沿って流れ、その心地良い音を連れて歩くことになる。

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色とりどりの樹々の隙間から「三条の湯」の赤い屋根が見えた。絵になる風景だ。カメラを向ける。

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13時25分、「三条の湯」に到着。修繕工事中の様相。灰色の作業服姿に違和感を覚えた。
テント場辺りの谷には紅葉した樹は見られなかった。テントの類いも無い。写真で見た混雑は無さそうだ。平日に限る。
アンドリューは居るのかな?見渡したが気配は無い。ザックを下しトイレを借りる。ここのトイレはとびきり奇麗だ。チップを竹筒へ納める。ここへは二度目となる。その時もやはりトイレだけ借りて通過しただけだ。

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20分程歩くと青岩鍾乳洞への分岐。その通行禁止の看板の前にザックが横たわっていた。アンドリューの黒いザックだ。
「この先危険のため、通行を禁止します。」
読めなかった、と言う事ではない。道は塞がれている。言語の問題ではない。承知の上ということだ。ここが目的なのだろうか。ザックが置いてあるということは、すぐに引き返して来るのか、立ち入った事を知らせるためか。ボトル、マップケース、トイレ用と思われるスコップはザックに残されたままだ。様子を伺いに行っただけだろうか。ピッケルは無い。持って行ったもの、残したもの。何を始めようとしているのだ。

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水無し尾根に出た。あれは3年前の4月、その時は友人とふたりでお祭から入り林道終点に車を止めて雲取山荘を目指した。「山頂付近は積雪があり簡易アイゼンが必要」という雲取山荘の情報を見て準備をして来た。小雨の中、雨装備での出発となった。それまでも春の雨が何日も続き、道の状態は悪かった。途中、ガイドロープが無ければ何処まで滑り落ちただろうか。そんな場面もあった。三条の湯を越えた水無し尾根で大きな雪が舞い降り、撤退を選んだ。

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痩せた尾根に花が終わったシャクナゲと切り株。ターニングポイントとなった印象的な風景。今日はその先へ進むのだ。しかし、相変わらずの曇り空だ。

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一時間程歩いた頃、突然光りが差した。濡れた落ち葉は黄金色に輝きを放つ。高揚しないはずがない。太陽の光の作用は絶大だ。
こちらに来る年配の男性が見えた。雲取山を下りて来たのだろう。コンニチハ!この天気の展開に言葉が弾んだ。しかし、「雲取山行くの?雪が積もって歩けないよ。アイゼン無いとダメだ。風もビュービュー凄くて寒いのなんのって。引き返して来たよ。」エッ?!そうなんですか。それは残念ですね。ありがとうございます。
しかし晴れて来たし、ここまで来たのだ。行ってみよう。行けるところまで。そして自分の目で確認するのだ。

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ほどなく雲取山が見えた。確かに。上空は晴れているものの、そこだけが悪天候?カメラの望遠で寄って見る。その山頂辺りは雲とも雪とも区別出来ない、おそらくその両方が勢いよく叩き付けられ、吹き飛ばされ、大きく樹々を揺らし白いものが舞っていた。吹雪の様相。

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やれやれ。またしても撤退。いや、最初の計画に戻すだけだ。三条の湯でのテント泊、それがこの旅の発端だ。ここで帰る訳ではない。ましてや丹波天平で帰ろうとしたのだ。プランAに戻す。

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引き返す道、明日歩く三ツ山も雪を冠り始めた。あのオヤジさんの忠告が無かったらどうしていただろう。その様子に注意も払わずそのまま足を進めていたのだろうか。そして独り身。強引に歩きいわゆる遭難ってこともあり得たのだ。
青岩鍾乳洞への分岐点に戻った。アンドリューのザックはまだそのままだ。あれから一時間半程経っている。地図を出す。それによれば往復一時間。さて、どうするつもりだい?

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15時半、三条の湯まで戻った。さっきのオヤジさんを含めて数人の年配の宿泊客らしき姿があった。幕営場を見下ろす。この時点では他にテントの類いは無い。受付を済ませる。幕営料を支払い、せっかくだ、風呂も申し込んだ。谷の幕営場へ下りる。撤退となったものの、これはこれで良いじゃないか。そもそもこの歩きの発端、目的はここでのキャンプだ。そう思うと新しい興奮と期待が湧いた。雑誌やブログに見るここは、テントが密集している画。だがどうやら独り占めだ。さて何処に構えてやろうか。

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まずは凹凸が無いこと。スタイルは出入り口に足を向けて寝る。そして陽の昇る東に向ける。空の面積を広く取る。西方向に微妙に頭を高く出来る傾斜があると良い。逆では眠れない。そして沢の音が心地良いポイント。しかしこの広い空間でこの条件を満たしたのは妙に隅っこだった。テントを組み立て、マットに空気を吹き込む。これは中々しんどい作業だ。寝袋とすっかり山パジャマに定着したダウンジャケットと寝袋を広げてロフトの回復を待つ。

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風呂へ行こう。トートバッグに着替え、手拭い、セームタオル、ヘッドランプを詰めて肩に提げた。間もなく日没。サンセット。素敵な時間だ。風呂帰りのオバサマに出会う。こんにちは。「こんばんは。」そうかもしれない。風呂も独り占めだ。結構大きな風呂だ。自分のスペースだけ、木板の蓋を下ろした。
アッツ!熱いっ!
温泉ではあるが温度が低いため薪を燃やして加熱している。それを水で冷ますのは誠に申し訳ないがこれでは入れない。水の蛇口を全開にする。この広い湯船の温度を下げるにはかなりの時間を要する。そして既に裸だ。掛け湯で寒さを凌ぐ。何とか入れるまでに冷まして湯に入った。肩まで浸かって深く息を吐くと、ひとりの若い男入って来た。そして同じ様に自分の分の蓋を外した。
「こんにちは。」こんにちは。「上りですか、下りですか。」ん?このフレーズ。
- それは先月、八ヶ岳のみどり池。ひとり佇んでいた老人が振り返り、「こんにちは。上りですか、下りですか。」と優しい笑顔。寂しさを隠した笑顔。奥さんは山はやらず、いつもひとりだと言っていた。一緒に下りて来るべきだったか。少し気掛かりだった。それを受け継いだように同じ音だった。思い出し心配が沸いた。それが実の爺と孫だったりするのかもしれない。 -
そうだな、今日はというとどうなのだ?雲取山を手前で引き返したこと。明日の飛龍山も雪の状況次第だということ。計画は上りだが状況しだいでは下りだ。そう話した。
「埼玉側北面は雪が残りますけど、山梨側南は大丈夫ですよ。すぐ解けます。あっても山頂辺りだけでしょう。問題ないはずですよ。」知識と経験が遥かに上手のようだ。
あなたは?
「僕は石垣の修理を手伝いに来たんです。」
そう言えば。あの作業服姿はあなたでしたか。業者さんかと思った。そう伝えた。
この湯も彼が湧かしたのだろか。この野郎!緩くしやがったな!と怒っているかも知れない。そう気付くと途端に居心地が悪くなった。
「明日は猟が解禁になって親方が鹿を撃ちに行くので、一緒に。きっと明日の夜は鹿料理が振る舞われるはずですよ。」
そんな会話を交わしていると、自分も山男の一員になったような気分だ。しかし逆上せてきたので、お先に。ありがとうございました。

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すっかり夜となりヘッドランプを点けてテントへと戻る。しかし半月と小屋の灯りだけでも充分歩けそうだ。
夕飯のための湯を沸かす。夜の定番アルファ化米のドライカレーとオニオンスープ。今日もアルコールストーブを持ってきた。軽量化最優先のため。扱いには慎重を期す。炎は見え難くその上すぐにひっくり返してしまうから。危うく川乗山を火の海にしかけたなんて、誰にも言えない。余分に湯を作りポットに確保して置く。
星の姿は無い。残念だ。しかし身体暖まり心地が良い。緩やかで素敵な時間だ。決して快適とは言えない寝床にも、眠りに落ちるのに時間は要らなかった。


丹波小学校  7:50
丹波天平(1,342.9m)9:30〜10:00
サヲウラ峠  10:45
三条の湯(1,624.0m)13:30
水無尾根 14:35
三条の湯 15:35
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